ACP(アドバンス・ケア・プランニング)なんて、くだらない。

エッセイ・ユーモア・日常から

「ACP(アドバンス・ケア・プランニング)がくだらない」

そう書いて、どれだけの人が眉をひそめるだろう。でも、これがある種、正直な僕の気持ちです。

救急の現場で目撃してきたもの

そこには教科書が想定していない現実がある。

外国人旅行者が外傷性脳出血で運ばれてきた。あらゆる手を尽くしたが、回復の見込みはほぼなくなった。家族は遠い国にいる。「今後どうしますか」と問える相手が、目の前にいない。

小学生が心停止で運ばれてきた。蘇生には成功したが、低酸素脳症が残った。両親は泣きながら立ちすくんでいた。何も言葉が出なかった。

自傷による全身熱傷の患者を重症管理していたとき、チームの中でこんな言葉が飛び交った。
「こんな苦しい治療を続けて、患者のことを本当に考えているんですか」
「では、諦めろと言うのか」

どちらの言葉も、嘘じゃなかった。だから余計につらかった。

嚥下機能をほぼ失った患者が「窒息するリスクがあっても食べたい」と強く訴えた。本人の意思は、揺るがなかった。ところが病院の医療安全部門は、介助するメディカルスタッフへの負担を理由に同意書の取得を求めてきた。その文書の文体は、食事を続けることがいかに危険な選択であるかを、暗に、しかし丁寧に伝えるものだった。患者は食事を諦め、点滴と低栄養で数ヶ月をかけて衰弱し、亡くなった。
「本人が選んだことだから」と、誰かが言った。


何かがおかしい

「本人が選んだ」って、本当にそうだったのか。

患者が選んだのは「食べること」だった。同意書を求めたのは病院だった。食事を諦めたのは、その圧力があったからじゃないか。そして衰弱死を「本人の選択」と呼んだのは、誰か。

なんか、おかしくないですか。

実はこの「おかしさ」は、僕の直感だけじゃなかった。

2021年にJAMAに掲載されたモリソンらの論文、“What’s Wrong With Advance Care Planning?”・・・「ACPの何が問題なのか」。

そこにはこう書いてあります。
80のシステマティックレビュー(原著論文1600本以上)を統合した解析で、ACPが終末期の意思決定に影響を与えたり、患者・家族の医療満足度を改善したりするという証拠は、見つからなかった。その後に行われた5つの大規模RCTでも(がん患者、特養入居者、プライマリケア高齢者など対象はさまざまだったが」ACP群と通常ケア群の間に、有意な差はなかった。

つまり、「ACPをやれば、患者の望む医療が実現しやすくなる」という前提そのものが、エビデンスによって支持されていないのです。

なぜか。「プロジェクション・バイアス」という概念:人は、未来の自分の気持ちを、今の自分の気持ちで予測しようとするわけだが、その予測は、往々にして外れる。

緩和ケア病棟に入院したがん患者168人を追跡した研究では、患者の「生きたいという意志」は、呼吸困難や苦痛のレベルによって波のように変動し続け、心不全患者を4ヶ月ごとに2年間追跡した研究でも、「積極的治療を望むかどうか」「どこで死にたいか」という希望は時間とともに変わり続けた

。一方向にではなく、行ったり来たりしながら。

今日「もう積極的な治療はいらない」と言った患者が、3日後に同じことを言うとは限らない。逆もある。

それでも、一度サインした書類が残る。書類は変わらない。

嚥下障害の患者が「食べたい」と言い続けたとき、その意思は数日間にわたって揺るがなかった。それを押しつぶしたのは、医療者側の「万が一のリスクは負えない」という保身だったのではないか。そして「本人が選んだ」という言葉が、事後的に貼り付けられたのではないか・・・。

プロジェクション・バイアスが起きる前に、制度が意思をねじ曲げていたのではないか・・・。


誰のための「意向確認」か

ACPや、そこから派生するDNAR(蘇生不要指示)が、免罪符として機能しているという感覚が、僕にはずっとある。

しかも最近、気づいてしまった。その免罪符を作るための会話が、日に日にうまくなっている気がする、自分自身に。

末期がんの患者に点滴をしない。高齢者の肺炎に人工呼吸器を使わない。胃瘻を望まない患者を看取る。これらの判断が「ご本人の意向に沿った医療」として処理されていく。

でも、待ってくださいな。

「この治療は本人にとって意味がない」と判断しているのは、誰か。医療者だ。医療者が「やめた方がいい」と考えた方向に話が進んだとき、「その方らしい最期だった」という言葉が添えられる。

では逆はどうか。「それでも最後まで集中治療を受けたい」「1秒でも長く生きたい」という患者の選択が、同じ熱量で「その人らしい」と受け止められているか。

僕の経験では、そうではないことの方が多い。

もちろん、問題は誘導の方向性じゃない。方向がどちらであれ、医療者の価値観が先にあって、患者の言葉がそれを追認するために使われている・・・その構造そのものが問題だと思う。

「あなたらしい生き方ってどんなですか」という問いかけは、一見やさしい。
でもその問いが「苦しい延命治療は望まないですよね」という誘導の包み紙になっていないか。患者の言葉を借りて、医療者の判断を正当化する。その構図は、かつて「患者にサインをもらう手続き」として形骸化したインフォームド・コンセントと、まったく同じ過程を繰り返しているようにも見える。

本人の意向を聞いているのではなく、医療者がすでに決めた方向性に「お墨付き」をもらいにいっている。

もしそうなら、それは対話ではなく、説得だ。


家族は、どこにいるのか

この構図をさらに複雑にしているのが、日本における家族の存在だ。

日本の医療現場では、患者本人よりも家族の意向が大きなウェイトを占めることが多い。「ご家族のご意向は」という問いが、患者本人への問いよりも先に来ることさえある。

ここに、奇妙なねじれがある。

「もしあなた自身がこの状態になったとき、延命を望みますか」という問いと、「目の前の患者に延命を続けますか」という問いとでは、同じ家族でも答えが変わることが多い。自分のこととして考えれば「そこまでしなくていい」と言う人が、いざ家族の治療となると「できることは全部してほしい」と言う。逆もある。僕でさえ、おそらくは自分の両親の看取りには大きな抵抗がある。

看取りの方向性に同意するとき、家族の心の中では何が起きているか。

「自分が死を決めてしまった」という感覚が生まれることがある。でも、本当はそうじゃない。医療的介入がなければとっくに亡くなっていた状態に対して、家族と医療者が遅ればせながら現実を受け入れ、合意形成をしているにすぎない。死を誘導しているのではなく、すでに起きていることやまもなく起きる予想に対して方針が追いついているだけだ。

にもかかわらず、看取りの「スイッチ」を家族に渡す構造が、その罪悪感を生み続けている。

ACPは患者の免罪符であると同時に、家族の免罪符でもある。「本人がそう望んでいたから」という言葉は、家族が自分を許すための言葉でもある。そしてそれを引き出しているのは、医療者だ。

逆の立場もある。早く逝ってほしいと思っている家族も、現実にはいる。社会的な事情から、まだ生きていてもらわなければならない家族も。その複雑さには、一文触れるだけで十分だ。深入りしても、誰も救われない。


現場の本音

しかも、この構造には続きがある。

対外的には「ご高齢ですから」「これ以上は苦しいだけです」という言葉で家族を看取りへ誘導する。医療者の間では「過剰医療」「無意味な延命」「引き際」という言語で積極的治療を批判する。方向は、どちらも同じだ。

「高齢者にあんな積極的な医療をして」
「何度も自傷している患者の蘇生をする理由はあるのか」
「こんなつらい治療を続けるなんて、医療者の傲慢、自己満にしか見えない」

これらの声は、看護師から聞いたこともあるし、医師同士の会話で出てきたこともある。嘘じゃない。正直な感情だと思う。

そして医療者のコミュニティの中には、暗黙の序列がある。「引き際のわかる医師」が、できる医師とされる。経済的な構造も、その方向と一致している。

でも、ここで正直に言っておきたいことがある。

医療者の「やめたい」という感情が、傲慢や利己心から来ているとは限らない。むしろその逆のことも多い。目の前で苦痛にゆがむ顔を、毎日見ている。バイタルが崩れるたびに処置を繰り返す。現代医療の限界を、骨の髄まで知っている。一般の人が人生で1〜2度しか経験しない「死に直面する場面」を、何十回、何百回と経験してきた医療者にしかわからない感覚がある。

その経験の蓄積から「仕方なかった」と思いたい気持ちは、ドクター・キリコ的な感情とは違う。現実を知っているからこそ生まれる、ある種の誠実さだと思う。

だからこそ、その感情が「患者らしい最期」という仮説に着地するとき、そこに自分の価値観が混入していないか、一度立ち止まって問い直してほしい。
かもしれない

ACPは、その感情の落としどころになっていないか、または医療者としてあるべき責任や矜持としてあえて混入させた価値観、誘導かは二の次として。

本物の免罪符は、どこにあるのか

「免罪符」という言葉を使ってきた。

本来の免罪符とは、罪の許しを得るための宗教的なよりどころだ。その背景には「正しく生きるとはどういうことか」という哲学がある。死に意味を見出し、罪悪感を昇華するための言語が、文化の中に育っている。

日本にはその基盤が乏しい。死は忌むべきものであり、心身の現実が受け入れられないから、選択肢がないから、そこに行き着く。本心から死を望んでいるわけではない。

だとすれば、今のACPが免罪符として機能しているとしても、それは本物の免罪符ですらない。哲学も死生観も持たないまま、手続きだけが免罪符の形をしている。

患者も、家族も、医療者も、誰も本当の意味では許されていない。


それでも、問いは必要だ

ここまで書いてきて、誤解されたくないことがある。

ACPそのものを捨てたいと言っているわけではない。

外国人旅行者に問える相手がいなかったこと。小学生の両親が立ちすくんだこと。患者が「食べたい」と言い、誰も正面から向き合えなかったこと。これらに共通しているのは、事前に何も話されていなかったという事実だ。

「1秒でも長く生きたい」という選択は、尊重される。「苦しい処置より穏やかな時間を」という選択も、同じように尊重される。どちらが正しいかではなく、どちらも本人の生き方だ。

実は、この問題意識は今、世界中で共有されている。

2024年にAge and Ageing誌に掲載されたマルホトラの論文は、ACPを「Advance Care Preparation(事前ケア準備)」として再定義することを提言している。キーワードはEducate・Share・Prepare:将来の決定を今日固定するのではなく、今の価値観を共有し、変化を受け入れながら準備し続けるプロセスへ。書類ではなく、繰り返される対話へ。

プロジェクション・バイアスが示すように、人の気持ちは変わる。だから一度の会話で完結させようとすること自体が、そもそも間違っている。

ACPが機能するとすれば、それは医療者が楽になるための書類を作ることではなく、本人が何を大切にしているかを、繰り返し、少しずつ言葉にしていくことのはずだ。そしてその言葉は、固定されるためにあるのではなく、変わっていくことが許されるためにある。目まぐるしく状況が変わる救急医療では非常に難しいことではあるが。


最後に

「ACP、くだらない」と書きました。

言い直します。

今の使われ方の相当な部分が、くだらない。もちろん、自戒を込めて。

くだらなくしているのは制度ではなく、それを使う側の意識と、無意識と、理解の問題です。

あなたは、患者が「それでも最期まで闘いたい」と言ったとき、その選択を「その人らしい」と、同じ温度で受け止められるか。

もしそうでないなら、それは本来のACPではない。医療者の価値観を、患者の言葉に着替えさせているだけだ。

ただ・・・それが即座に「悪」だとも言い切れない、とも思っている。

問題は、その価値観の混入に気づいているかどうかだ。気づいていれば、修正できる。すり合わせができる。患者の言葉の奥に何があるかを問い直せる。そもそも患者の価値観は、何を目的に形作られてきたのか。その目的を理解した上で、医療者の知っている現実、医療の限界と、その先に待っているものを、正直にシェアすること。それが、本当の意味での対話じゃないかと思う。

そしてもう一つ、目を背けてはいけない現実がある。医療経済、資源の分配、スタッフの心の余力。これらを抜きにしたACPの議論は、きれいごとで終わる。現実を直視した上で、それでも患者と、いや、患者になる前の、まだ元気なうちの人たちと、みんなで対話を続けていくこと。それはやっぱり、大切なことなんだと思う。

くだらないと書いた。でも、くだらなくしたくはない。

はい。

いのちのまにまに。

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